粟田哲夫画歴
1937
岐阜県土岐郡笠原町に 生 まれる。
1958
作品「さかな」F50号2点新制作協会展に出品
新作家賞受賞美術雑誌「みずえ」(641号) 針生一郎氏の展評を受ける
1959
岐阜大学学芸学部美術工芸科 卒業
1959
作品「激流にいどむ鮎」F50号2点新制作協会展に出品
作品「さかな」F50号2点グループ耕人会(馬渕隆5人) 東京 銀座 櫟画廊にて開催
櫟画廊
今後の活動は個展発表を中心にと考える。師坂井範一
1960
作品「うず」F60号6点 二人展(馬測隆)
櫟画廊
1961
作品「しぶき」 水性絵の具の持つ可能性の追求。
櫟画廊 個展
1962
作品「激流」作品「しぶき」 生きているあかしとしての表出をした
櫟画廊 個展
1963
作品「環」(透かされた囲い)
櫟画廊 個展
1964
作品「人間回復」 美術雑誌「三彩」(S・40・5月号)作品掲載
櫟画廊 個展
岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバル作品 「作品群」出品
岐阜市スポーツセンター
1965-1967
作品「内なる囲い」T〜V
櫟画廊 個展
1968
作品「まつり」(カード・マス)立体作品を中心に全体に作品にした
櫟画廊 個展
1969
作品「鏡と墓標」T〜V
櫟画廊 個展
1972
作品「鏡台と女」シリーズT〜V
櫟画廊 個展
1974
美術雑誌「芸術生活」展評 針生一郎 NO.303 1974年作品掲載
1975
作品「おんな」 '75 櫟展出品
櫟画廊
作品「女」シリーズ T〜V
櫟画廊 個展
櫟 画廊企画 展 1975・4
櫟画廊
粟 田 哲 夫 画集 巻頭言三木多門 発刊
1978
作 品 「おんな」
櫟画廊 個展
1979
作品「おんな」F50号1点 岐阜県展依嘱出品
岐阜県美術館
作品「女変相図」シリーズ T〜X
櫟画廊 個展
「おんな変相図」 第1回郷土作家100人展
岐阜近鉄百貨店
1980
「おんな変相図」 岐阜県展委嘱 県 美術館
岐阜県美術館
「おんな変相図」 第二回郷土作家100人展
岐阜近鉄百貨展
1981
V…個展20回記念 展 作品
櫟画廊 個展
粟田哲夫画集 巻頭言 三木多門 発刊
1982
週刊誌「 週 刊ポスト」展評 瀬木慎一 作品掲載
1983
「おんな変相図」 岐阜県展委嘱 出品
岐阜県 美術館
1984
「おんな百態−1」
櫟画廊 個展
日 本 美術 ビジュツ の 精鋭 150人ポストコレクション 展
東京 セントラル美術館
岐阜県 美術館 竣工 記念 展 「おんな百態」 岐阜現況展
岐阜県 美術館
1985
「おんな百態−U」
櫟画廊 個展
岐阜 アンデパンダン 今日の 動向 展 「おんな百態」
岐阜 市民 センター
1986
「おんな百態−V」
櫟画廊 個展
1987
「おんな百態IV」Ml00号2点・M60号13点
櫟画廊 個展
第5回岐阜県総合美術展 M50号 招待出品
岐阜県美術館
1988
「おんな百態V」M60号5点・MsO号7点
櫟画廊 個展
第6回岐阜県総合美術展「おんな百態40」M50号 招待出品
岐阜県美術館
1989
「女人マンダラ−T」
櫟画廊 個展
1990
「女人マンダラ−U」
櫟画廊 個展
1991
「女人マンダラ−V」
櫟画廊 個展
1992-1997
「女人マンダラ−V」〜「女人マンダラ−Z」
櫟画廊 個展
1998
「マンダラ」−T
櫟画廊 個展
1999
「マンダラ」−U
櫟画廊 個展
2001
シューニヤ 美術 館 3月1日オープン
シューニヤ美術館
「顔マンダラ」 8月15日〜11月30日 作品80点
シューニヤ美術館
2002
「こどもマンダラ」 1月5日〜3月31日 作品90点
シューニヤ美術館
「女人マンダラ」 4月5日〜7月14日 作品78点
シューニヤ美術館
「おんなへんマンダラ」 8月15日〜11月30日88点
シューニヤ美術館
2003
「さかな&マンダラ」 1月10日〜3月31日
シューニヤ美術館
「花&マンダラ」 4月5日〜7月14日
シューニヤ美術館
「 樹 &マンダラ」 8月15日〜11月30日
シューニヤ美術館

(粟田哲夫作品集 巻頭言より)

粟田哲夫について
三木多聞


絵を描き、彫刻をつくる、大げさにいえば造形芸術を創造するのはあくまで個人的な行為である。しかしその作品を何らかの形で発表するのはいうまでもなく社会的な行為である。発表といっても個展やグループ展もあれば公募団体展、県展、コンクール選抜展などさまざまな形式が考えられる。貸画廊を借りて発表することもあれば、美術館や画廊の企画による場合もある。貸画廊を借りての個展が多いのは日本の特色であるが、画商の選択によらずに自由に発表できるのは良い点もあり、反面自己満足に陥り易い欠点もある。どこまでが美術家といえるかその限界は大変難しいが、美術を制作することを人生のかなり重要な部分と考えている人も、現代社会に生きる存在であることには変りはない。そこで社会に生きることと発表することとが微妙に絡みあってくる。絵を描くきっかけを与えてくれたり、指導してくれたりした人との関係が公募美術団体展という特殊な制度を支える基盤になっていることも無視できないし、県展での地位が少なくともその社会での美術家の身分保障にもつながってくる。いわば他流仕合のコンクール展もかなり増えてはきているが、美術家が社会的に生きて行くこととは、それほどストレートに結びついているとはいえまい。
本来の創造活動とはずれた話題になってしまったが、これから触れようとする粟田哲夫という画家が、たまに特殊なグループ展などにも発表はしたものの、 1962 年以来 1980 年まで実に 19 回も毎年銀座の櫟画廊で個展を開き続け、 81 年には 20 回目の個展を開くという、実に特殊なケースであることを強調したかったからである。 10 回以上個展を開いたケースは何人か知っているが、 20 回というのは記録的な数字ではあるまいか。
健康に恵まれたのも不可欠な条件であろうが、前述したような美術界の諸条件のなかで個展一途に発表を続けてきたことは、粟田哲夫が温厚な外見にも似合わず、よほど頑な強い意志の持ち主であることを思わせる。 1965 年の「美術ジャーナル」、誌に寄せた「反復人間」という一文のなかに
−消えていく美化人間を知りながら歩こうとする− 反復人間の回転
奮然とことに当り平然と成さぬ−反復人問
懸命にものにとりつかれた惰性を恐れぬ−反復人間
反復にあきていると知りながら歩こうとする−喪失人間
否、ふるい起つときにおこる透明なものが中間にあるのだ。宙に浮いた、いずれにも属さないものを見出すまで耐える。−と書いたことがあるが、まさに彼は反復人間なのであろう。
ここしばらく粟田のモチーフは「おんな変相図」シリーズであり、こんごもその予定と聞いているが、それ以前にも「女」シリーズ、「鏡と墓標」シリーズなどがあったが、この画家が一貫して追求している中心は人体とくに女体であると思う。こうしたモチーフはもちろん古くて新しい主題であるが、粟田の興味はあくまで人体のドラマにある。一時期の彼の絵には使いふるされたタンス、長持、鏡台、針箱などがしきりに登場した。それらの家具は単に一人の女性の持ち物としてではなく、怨念や相剋などを含めた長い間の女の匂いのしみついた事物なのである。長い歴史のなかで多くの男女の間に交わされたであろう愛憎を人体として表現しようとしているように思われる。
岐阜出身の粟田哲夫の生活環境についてぼくは全く何の知識ももたないが、彼の周辺にある事物は、東京に生まれ育ったぼくなどには想像もつかないような深い意味をもっているのかも知れない。女体を中心とする粟田の人間ドラマはさまざまなデフォルマションを重ねながら変身を続けている。当然のことながら直線よりも曲線が多用され、アール・ヌーボー、とくにクリムトなどを思わせるような装飾性は、この画家にとってかなり強い関心になっていると思う。粟田の女体に世紀末的な頽廃を感じることも決して少ないことではない。しかしそれがこの画家の女性観や人性観とどれほどかかわりあっているのかぼくにはよくわかるという自信は正直にいってない。ただそれが造形表現上のバリエーションからだけ生まれているとは思えない。ただ女体のなかにときにあらわれる刺青や、記号的な形体との組合せになると、ぼくは必ずしも共感を感じないこともある。
この画家は以前に「作品ひとつひとつにうめき声があり、全作品ではおんなの匂のすることを念じながら……」と書いたことがある。恐らくその辺に粟田の本音があるように思う。それを彼の人生のほぼ半分に当る半世紀近い 20 年という歳月を費やして実現しようとしているこの「反復人問」にぼくは関心と期待を持ち続けて行きたいと思う。

 


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