岡嶋多紀展2002年10月11日〜29日
|
木綿和紙布から紙へ 平面から立体へ 木綿という素材に付き合えば付き合うほど、木綿の持つ力を知ることになりました。 岡嶋 多紀 |
木綿と生きる 岡嶋多紀展 〜 織物から和紙へ、木綿の可能性 〜 岡嶋多紀さんは、以前アパレルメーカーを設立し、デザインや商品企画開発の仕事をしていた。当時から木綿の素材にはこだわりを持っていた。その後デザイナーとしての仕事を退き、アトリエの整理を始めたところ、膨大な量の残布が眠っていた。これらを素材別に仕分けしてみて、あらためて「木綿」を再認識した。そしてこの屑となった木綿の残布を糸に戻そうと考えた。裂織りを始めるきっかけだった。試行錯誤を重ねた末、木綿起毛の織物を完成させ「たき織り」と命名した。これが岡嶋多紀オリジナルの織物である。 「たき織」は、木綿の布地を一本のバイヤステープにし、横糸に織りこんでいく。そして、様々な工程を経てそれは心地よい「感触布」となる。手の温もりを感じさせる優しい木綿の感触である。 岡嶋さんは日本国内はもとより、南米、アジア、ヨーロパ各地を、木綿に魅せられ訪れている。マスメディアの進歩で世界中の情報を居ながらにして得ることができるが、実際にその地を訪れて、人と出会い、その地に育まれた伝統や文化を吸収したいと考えている。アンデス山麓の広大な綿花畑にたたずみ、真っ白い繊維が溢れたコットンボールを眺めた時のことを、「ふわっと柔らかくて温かく、アンデスの空気が体の中を走るようだ」と振り返る。それが「たき織り」の原点でもあったと述べている。 裂織りには、使い古した布を細く紐状に裂き、撚りをかけて緯糸(ヨコ糸)に使い、経糸(タテ糸)には麻や木綿糸などが使われていた。厚地で丈夫で長持ち、仕事着に適している。近年粗末に扱われていた古い野良着が、貴重な織物文化の遺産と認識されたという例もあるように、裂織りは伝統の織物文化である。江戸中期、北前船の進出により、綿栽培に向かない寒冷地方にも、木綿布が流通するようになった。しかし布はとても貴重なもので、人々は着古した木綿布を裂織りにして最後まで大切に使い切った。 岡嶋さんは、木綿や和紙のルーツを探しによく地方へ行く。そして必ず何かに感動し作品に反映している。そこの地域に入って同時に息を吸うことによって、感動し同じ考え方がわかる。和紙も織りも伝統のもの、原点に戻り、なぜそこに発達したかを探っていくと、生活の中から生まれた美しい伝統文化をもっと見直そうという気持ちがわいてくる。大宝2年(702年)の戸籍用紙が正倉院に現存する。これは美濃手漉き和紙である。岡嶋さんは、美濃へも2回訪れている。作品展では、その土地の伝統をとても意識するという。佐渡は裂織りのふるさと、埼玉小川町は和紙の里だった。パリの場合は、今までファッション情報を得ていた場所。オリジナルの布地を持って行けたことは、自分にとって意義あることだった。日本の木綿とフランスの残り糸の融合は、友好でもあった。 岡嶋さんは、繭(まゆ)の形をした木綿和紙のオブジェをいくつも作っている。自身はこれを立体漉きと呼ぶ。木綿和紙を立体にできないものか、骨組みも継ぎ目もない一枚の立体木綿和紙。またあらたな挑戦が始まり、漉く工程を立体化するという、従来の手漉き法の観念を打ち破ったアイデアである。この繭のオブジェは、明かりと共に見違えるような色彩に変化する。蚕の繭(絹)は真綿(まわた)の原料でもある。古く奈良時代は綿(わた)といえばこの真綿のことで、後に木綿わたが登場したそうだ。岡嶋さんはあえて、木綿で繭を作ろうと考えたのかもしれない。 時代の移り変わりと共に、われわれの生活スタイルも変わってきた。しかし、「木綿往生」の精神は大切に、雑巾で終わらせることなく、可能な限り、美しく再生させていきたい。そして、生活の中に美を求めていきたいと考えている。 * 協力 藤井国勝さん・中村淳子さん。酒店のオーナー藤井さんは「捨てられない」と、ある銘柄のお酒のラベルをコレクションしている。このラベルの裏に、彫刻家中村淳子さんが心を込めて墨で描いてみた。岡嶋さんははこれも展示したいと考えた。ちなみにこのラベルは、健康で三十世紀に残る紙を目指す新潟門出和紙。
|
展覧会 演劇 文献 その他 |